「アメリカ艦隊から購入日本物資への支払いに使用された一ドル銀貨は、量目七・一二匁で品位八六五のものであった。洋銀代表格のメキシコ・ドルは量目七・二匁の品位八九八である。両者の比較からも明白のように、アメリカ海軍の紳士たちも同じ人の子、旅の恥はかきすてとばかりに、良質のメキシコ・ドルは温存して悪貨ばかりをよって日本につかませたのである。このことは、当時のアメリカの一般的意識からすれば、まさか自分の手渡した銀貨が日本における高度の科学水準で精査されるとは想像だにしなかったということによるものではあるが、人間味ゆたかなエピソードではある。」(163頁)
「同種同量原則によって洋銀一枚には一分銀三枚、洋銀一〇〇枚には一分銀三一一枚が提供されることになった。」(171頁)
父親のコレクションの中に金貨があって、価格はどれくらいするのかしらとメキシコ金貨を検索していてこちらを発見。
「いま一〇〇ドルの洋銀がもちこまれたとしよう。それを同種同量の原則によって三一一枚の一分銀に交換し、更にそれで七七両三分の小判を入手したとすれば、一三二・五匁の金を得ることになる。これをアメリカ金貨一ドル=純金〇・四匁で計算すると、三三一ドル相当となる。(中略)ただしこれは単純な机上計算であるにすぎず、現実には
事態はこのように運ぶものではない。同種同量の交換原則からわかるように、日本政府は一分銀と小判との異種交換には全く関知していないからである。したがって一分銀と小判の交換はアメリカ人個人の仕事であり、一個人としての日本人と直接に交渉しなければならない。交渉相手となるものは小判商人とよばれるものである。しかし、日本の金貨と銀貨との交換については、幕府は関知しないどころか、小判商人の手を経て金貨が海外流出することに目を光らせる幕府は、庶民の彼らへの小判売却を禁止したのである。したがって、小判商人は小判売却にあたって手数料プラス禁令を犯す処罰への保険料を要求することになる。つまり、外国人の小判購入価格の上昇である。」(172~173頁)
「流出額については、これまでに二〇〇〇万両説から一万両説までという極端なひらきがあって、正確なところはわからない。私は約八〇万両と推定しておいた。」(182頁)
引用というより限りなく転載に近いのですが、あえて以下記載
いったいいくら流出したのか?(上)
幕末に流出した金の量がいかほどであったか、三上先生は約八〇万両と推定されています。
「江戸幕府破産への道」には藤野正三郎(一橋大学の名誉教授をされている方らしいです)先生の研究として開港時の金貨流出を第一次のものとして、およそ八二〇万~八六〇万両推定したものを紹介されています。その上に万延元年五月には洋銀は時価通用になり市場相場による交換レートや比価の成立にもかかわらず万延小判や万延二分金が流出したとして、同じく藤野教授の推定としてその第二次貨幣流出の規模を一一〇〇万両という数字を紹介しています。
これには疑問を覚えるのです。というのは、同じく「江戸幕府破産への道」には「金流出は安政六(1859)年八月下旬から十月中旬にかけての二か月と、一一月の中・下旬の二〇日間とに集中しておこった。」と紹介してあることによります。
この期間は幕府が外国商人に対して一分銀の両替を行なっていた期間なのです。一分銀さえ手に入れれば大儲けできますから、当然にように天文学的数字の両替要求が起きます。ところが、もともと幕府はこのレートで交換するのは不本意なので、在来一分銀の枯渇による両替不能という作戦をとります。時間稼ぎの姑息な戦法です。外交団に責められて渋々と八月下旬から一日一万六千枚の一分銀を両替することにします。
更に、たまたま十月十七日に起きた江戸城本丸の火事を理由に両替を中止します。これに外交団は「本丸火災と銀座の作業は無関係」とつっこみ、十一月十五日から一日に二万二千四百枚を限度に両替を再開します。
要求額に対し余りに少ない一分銀の供給に業を煮やしたハリスは、十二月末より量目七・二匁以上の洋銀の表面に「改三分定」と刻印を押して三分として流通されるように提案します。
ところが、これはほとんど流通しなかったのです。日本人が受け取りを拒否したためです。
翌年の初めには「直増通用令」を出して小判の値打ちを三倍に引き上げます。これ以降、外国人に小判を売り渡す者はいなくなったと思うのです。
ここで、外国人が手にした一分銀の量をもとに計算すると
①安政六年の八月下旬から十月十七日は一日に一分銀一万六千枚(額面で四千両)両替
つまり四千両×六十日=二十四万両
②十一月十五日から十二月下旬にかけて一日に一分銀二万二千四百枚(額面五千六百両)
つまり四十日として 五千六百両×四十日=二十二万四千両
上の合計は四十六万四千両になります。ただし、これは一両=一分銀四枚のレートでしかも両替した一分銀がすべて小判漁りに廻った場合の計算です。
これ以外に外国人が一分銀を入手したのでしょうか?
実際は、小判購入以外にも一分銀を使ったはずですし、まして翌年には金価格を引き上げたので、外国人に小判を売っても得にはならなくなるのです。
井伊大老が家来に「なるべく小判に換えておけよ」といった可能性があるという説まであります。一分銀で四枚持っているのと、二月以後には三両一分二朱になる小判で手元に持っているのとでは大変な違いになりますから、おいそれとは小判を手放さなくなるわけです。両替商の店先には大変な行列ができたそうです。
いったいいくら流出したのか?(下)
幕末の金流出がどれくらいだったか推定したものを、他のいくつかの本で調べてみました。
まず、「日本史小百科 貨幣」(東京堂出版)では、「・・・外国側の反対により安政二朱銀は二週間ほどで通用停止になった。その結果、日本からの金貨流出(一説に五〇万両)が本格化するが、その金貨流出の規模・期間はこれまで言われてきているよりは小さく、短いものであったという学説が提唱されている。」(116頁)
「この金貨の流出額に関しては、種々の推定が報告されているが、現在では合計五〇万両程度という見方が一般的になっている。」(150頁)
次に「貨幣の日本史」(朝日選書・東野治之著)では「その額がいくらだったかは、専門家の間でも意見が分かれ、大は八〇〇万両から、小は一〇万両まで、ずいぶん開きがあるが、妥当なところは三〇~四〇万両というところだろう。 これは安政の改鋳で登場した安政小判の鋳造量、三五万両余りにほぼ匹敵する。おそらく天保小判以前の古い
小判も含め、流出していったことだろう。」(236頁)
「大君の通貨」に引用されている「横浜市史」では「まず三十万両前後としておくことが穏当なのではあるまいか。この金貨流出額は、従来予想された数字よりはるかに少ない」
これらの数字は、両替した一分銀の額面(麻生の計算では四十六万四千両)から推定したものだと思うのです。
五十万両は、額面をそのまますべて流出した小判に計算し、三十~四十万両は、「手数料」や「小判漁り以外」に一分銀を使ったことも含めて計算したものと思うのです。
「貨幣の日本史」に出てくる安政小判は安政六年(1859)に一年限りしか作られていない小判で、もともと三十五万両余しか作られておらず、現存するものは極めて少ないそうです。
江戸後期の天保小判などと較べて時価で三倍以上するそうです。(レアなのですね)
これを「貨幣の日本史」ではほとんど全てが海外に流出して鋳潰されたためと推定しています。
可能性がないとはいいきれませんが、少し疑問なのです。例えば天保小判は鋳造高が八百十二万両余、額面にして安政小判の二十倍以上鋳造されているのです。現在時価評価でそれくらいの差がついても当然のような気がしますし・・・現存数が稀少なのも全て流出したという他に、回収されて万延小判などの新しい小判に吹替えられた可能性もあるのではないでしょうか? 万延小判は安政小判と品位は同じ(56.8%)で重量が三分の一になっただけなのですから・・・
両替した一分銀(四十六万両余)も小判一枚につき一分銀八枚要求されたら半減してしまうのです。
小判にプレミアがつくと小判以外の商品を買いあさった方がお得になるのです。
洋銀一枚=一分銀三枚だと、小判以外の全ての品物が三分の一の越コストで手に入ることになります。例えば、三両の品物を外国人が買う時、本来12ドル出さねばならないのですが、誤った為替レートだと4ドルで買えることになってしまいます。
その為に手当たり次第商品を買い漁ることになり、物価が上がり始めます。その上に金価格を引き上げた為に未曾有のインフレが起こったのです。
実に興味深い。@ガリレオ

幕末の経済史研究ってどなたがされていたかな?と思い、
辿り着いたのが「幕末のオススメ本は?」。
石井孝さんは結局読まずにいますが、服部之総『黒船前後・志士と経済』は岩波文庫で読んだ覚えが。
既に記憶から大半が欠落していますが(汗