正義のかたち 死刑・日米家族の選択(毎日)

痛いニュースさん経由で、記事を知りました。
魚拓の方がよかったかな?と思いつつ、以下に。(連載7回分/長文注意)

毎日jp「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/1 義母殺された女性、弟が殺人被告に」


今年5月に始まる裁判員制度で、殺人など重大事件の裁判に国民が加わることへの不安が高まっている。死刑判決の言い渡しに直面するからだ。かけがえのない命を奪われた被害者遺族、極刑を言い渡された被告の家族ら当事者は、どう「死刑」と向き合ってきたのか。先進国で死刑を維持する日本と米国。家族たちの重い選択を通し、人の命を奪うことの意味を考えたい。




◇「許せない、でも戻らない」
可愛がってくれた義母を強盗に殺害された女性(40)。殺人事件の被告である弟(33)の情状証人として、名古屋地裁の法廷に立ったことがある。00年11月のことだ。「最初は、弟が許せませんでした」。姉は語り始めた。
父親は家に寄りつかず、母親は弟が13歳のころ家出した。大阪市内に残された子供ら5人は満足な食事も取れない。すさんだ家庭環境を静かに語った。だが、生い立ちで殺人が正当化されるわけはない。「被害者の方に申し訳なくて」。何度も言葉を詰まらせた。
今の心境は、と弁護人が聞いた。「できれば、人生やり直すチャンスが弟にあれば」と訴えた。「犯人であっても、もう人が死ぬのが嫌なんです」
   ◇  ◇
94年9月28日夜。大阪・ミナミの繁華街の雑居ビルで事件は起きた。4人の少年が、路上ですれ違った無職、林正英さん(当時26歳)を405号室に連れ込み、暴行して殺害した。少年らはその後10日間で3人の命を奪う。
集団で恐喝を繰り返すうち、暴力に歯止めがきかなくなったとされる。名古屋高裁は05年10月、事件の中心とされる当時18~19歳の元少年3人に死刑を言い渡した。弟は、その一人。殺意を否認し、上告した3人に、最高裁は年内にも判断を示す可能性がある。
   ◇  ◇
姉の人生を変えた二つの現場。ミナミのビルは15年前の過去を隠すように、4階だけはアルファベットで部屋が表示される。スナック店主だった義母(当時45歳)は88年5月、そこから北へ約5キロのビルで殺された。店があった1階はシャッターが閉まり、近所で事件を知る人も少ない。
関西地方に住む姉を訪ねた。
「人が死ぬのは嫌って法廷で言ったのは、夫がきっかけです」
18歳の時に結婚。四つ年上の夫は、男ばかりの4人兄弟で、義母は「初めての娘や」と周囲に語り、喜んだ。事件の3カ月前、女児を出産。義母は初孫をうれしそうに抱いた。だが、遺体の顔は口元をゆがめ、目を開けたまま。ショックで生理が7カ月こなかった。
あやめた男は、逮捕時39歳の元自衛官。女と付き合う金欲しさから、事件を引き起こした。奪った現金は1万2000円だった。
事件直後は、男を殺してやりたいと思った。今も、許せない。ただ、夫の言葉が忘れられない。「死刑にしても戻って来るわけじゃない」。検察側の証人として大阪地裁に出廷した夫は、被告にどんな刑を望むかと問われた時のやり取りを、帰宅後にそっと打ち明けた。大阪地裁は89年3月、男に無期懲役を言い渡し、男は服役した。
母親思いで、よく自宅から1時間かけて店まで送っていた夫。大切な人を殺されたつらさを知っているゆえに「もう一つの死」を望まないのだと理解した。ただ、法廷で弟の情状を訴えた時、背中に感じた遺族の視線の痛さも消えることはない。
   ◇  ◇
弟に死刑判決が出た直後の05年11月。姉は買い込んだ衣類を持って、一度だけ名古屋拘置所を訪ねた。泣き虫で優しい印象しかない弟との面会は、涙で会話にならなかった。
それからは一度も会っていない。「ご遺族のことを考えたら、弟は優しくされちゃだめなんです」。肩が、小さく震えた。拘置所生活で真っ白になった弟の肌が、今も目に焼きついている。




◇連続リンチ殺人事件
大阪、愛知、岐阜の3府県で94年9~10月、少女を含む少年らのグループが男性4人に言いがかりをつけて暴行し、殺害したとされる事件。最高裁が死刑の判断基準を示した83年以後、複数の少年に死刑が言い渡された例は他にない。



同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/2 遺族と被告、拘置所で面会」


◇別れ際に握手…なぜ
弁護人に付き添われ、面会室のドアを開けた。アクリル板の向こうに現れたのは、160センチに満たない丸刈りの男だった。06年4月、名古屋拘置所。満開だった桜も、葉が目立つようになっていた。
大阪、愛知、岐阜3府県で94年、男性4人が殺害されたとされる連続リンチ事件。2人目の犠牲者となった建設作業員、岡田五輪和(さわと)さん(当時22歳)の母(71)は、兄弟で一番仲の良かった弟(35)と、息子の命を奪った男に向かい合った。名古屋高裁で05年10月に死刑を言い渡された3被告(事件当時18~19歳、いずれも上告中)のうち、大阪府松原市生まれの元少年(33)だった。
元少年は1審の時から、10月7日の命日に合わせて毎年、手紙を送ってきた。
<犯してしまった過ちが大き過ぎてどうしたら良いのか解(わか)らず苦悩するばかりです>
拘置所の請願作業で蓄えた1万円余りの現金も届くようになった。もちろん、許せるわけはない。だが、謝罪の思いは伝わってきた。死刑判決後、元少年の弁護人から頼まれ、会ってみようと思った。
    ◇
少年らのグループによる五輪和さんへの暴行は、6時間以上にわたった。愛知県一宮市の木曽川の河川敷に放置され、息絶えた。所持品の中に、べっとりと血がついた10円玉が2枚あった。瀕死(ひんし)の体で電話をかけようとする姿を思うと、母は涙が止まらなかった。
面会室で、弟が事件の詳細を問い詰めた。元少年は記憶をたどり、小さく答えた。
「殴ってる時、気持ち良かったか」「そんなことないです」。「何発殴った?」「10発ぐらいです」
弟の口調はきつかった。ただ、自身も荒れていた時期があったといい、年を重ねての自分の変化も口にした。
「頑張って出て来い。出て来たら10発殴ってやる。指切りして約束しろ」。アクリル板越しに小指を当てた。
元少年をじっと見つめていた母も口を開いた。「頑張って償って。出て来たら線香の1本も上げて」。別れ際、母がふいに声をかけた。「握手をしよう」。アクリル板越しに、手のひらを重ねた。
    ◇
事件から10年余りを経て、初めて言葉を交わした遺族と加害者。元少年は「直接謝りたかった。それで済むとは思ってない」と、言葉少なに記者に語る。
一方、母の思いは複雑だ。「死刑になったら、それでおしまい。サワ(五輪和さん)の苦しみを(被告に)味わわせてほしい。そしたら人間の命はどういうもんか初めて分かる」。厳しい言葉を吐いた。
あの時なぜ握手しようと思ったのか。元少年を見ていて五輪和さんの姿が浮かんだのだという。
「けじめをつけた。いつまでも事件のことを思いよったら、自分が前に進まれん。もう(被告)3人の誰とも会いたくない」。線香を上げ、遺影に言葉をかける日々が続く。





◇死刑制度
「アムネスティ・インターナショナル日本」によると、死刑を維持する国・地域は59。廃止した国・地域は、10年以上執行を停止している「事実上廃止」を含め138。廃止が潮流になりつつある。主要先進国で維持するのは、日本と米国。欧州連合(EU)は、死刑廃止が加盟の条件。日本と同様、国民が裁判に参加し、量刑まで決めるフランスやドイツの国民が死刑を言い渡すことはない。



同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/3 遺族、少年の更生に参加」


◇極刑求めて…揺らぐ
カップ酒一つとたばこ1箱、菊の花3本。昨年10月、岐阜県輪之内町の長良川河川敷に、供え物が並んだ。
少年グループによる連続リンチ殺人事件で、江崎正史さん(当時19歳)と、友人の渡辺勝利さん(同20歳)は、94年10月8日、この河川敷で亡くなった。
<正史さんをみな様から奪いとってしまいほんとうに本当に申し訳ありませんでした>
昨年の命日の前日、江崎さんの父恭平さん(64)に手紙が届いた。死刑を宣告された3被告(いずれも上告中)のうち、愛知県一宮市生まれの元少年(33)からだった。供え物は、彼が知人に頼んで手向けた物だ。
だが、恭平さんは「手紙を素直に受け入れることはできない」と言う。責任のなすり合い、傍聴席の知人に送る目配せ。殺意を否認する3人からは「反省」を見いだせなかった。
「昔なら『死んでおわびを』と聞けたところであろう。貴様らの口からはそんな言葉はみじんもない」。05年3月、恭平さんは6枚の陳述書を読み上げた。3被告の弁護人の一人は「あの意見陳述で、裁判長の態度が明らかに変わった」と振り返る。05年10月に名古屋高裁が全員に死刑を言い渡すと、恭平さんは検事と握手を交わした。
    ◇
「君たちが更生しようがしまいが知ったことじゃない。私みたいな人間を出さないために、ここに来ている」。06年9月から、恭平さんは愛知少年院(愛知県豊田市)で少年の更生のプログラムにかかわり、被害者遺族の置かれた状況を訴えている。その決意の背景には、少年院が更生の役割を果たしていない、という疑問があった。
一宮市生まれの元少年は事件前の1年5カ月をここで過ごしている。事件は、仮退院した7カ月後だった。
元少年の実母は、生後2カ月で他界。養母からたばこの火を手の甲に押し付けられた。小学3年の時、教師の万年筆が盗まれた。女児がやったのに犯人扱いされた。教師から謝罪はなく、大人への不信感を強めたという。
拘置中の98年、死刑囚らで作る交流誌に「聖書を学びたい」と投稿。面会に訪れた名古屋市のクリスチャンの女性(58)が、汚れた服を引き取り洗ってくれた。面会を重ね、3年前から、女性を「おかん」と呼んでいる。
「家族のつながりを奪い、許されないことをしてしまった」。拘置所で「家族」と出会い、奪った命の重さを知った。「生きたい、と言うのはずうずうしい。けど、自分が死ぬことで解決しないのかなとも……」。元少年は、面会した記者に揺れる思いを口にした。
    ◇
恭平さんは、犯罪被害者の遺族として、命の尊さを訴える「生命のメッセージ展」の活動に5年前から参加している。死刑を求めることは、3人の命をくれ、と言っているのと一緒。サークルにおれがおってもいいのかな。そうつぶやいた恭平さん。
「死刑を求める気持ちに変わりはない。ただ、ちょこっと揺らぐ部分がある」


同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/4 許し、慰問する被害者の母」


◇憎しみの人生に疑問
<敬愛する ミッキーさま
12年前、私には美しい娘がいました。あなたに命を奪われた子です。あなたが罰せられることを夢見てきましたが今、あなたを許せることに自分自身、驚いています。
キャサリーンの母より>
米西部オレゴン州シルバートンに住むアバ・ゲイルさん(72)は92年4月、カリフォルニア州サンクエンティン刑務所のダグラス・ミッキー死刑囚(60)に手紙を書いた。数週間後、感謝するとの返信を受けたゲイルさんは同年8月、刑務所を訪ねる。
案内されたのは死刑囚ばかりの棟。「怪物」ばかりだと思っていたが、死刑囚は誰も物静かで礼儀正しかった。待つ間、緊張で心臓の鼓動が高まった。約45分後、目の前に現れたのは「ごく普通の男性」だった。
2人は3時間以上、語り合った。ミッキー死刑囚が16歳の時、母を自殺で亡くしたことも知る。「2人はキャサリーンについて話し、一緒に泣きました。私が娘を奪われた夜、ダグ(死刑囚)も未来を失ったのです」
    ◇
事件は80年9月に起きた。ゲイルさんの次女、キャサリーンさん(当時19歳)は、カリフォルニア州のアパートに音楽家(当時30歳)と同棲(どうせい)していた。薬物を巡るトラブルからミッキー死刑囚は知人の音楽家を刺殺、キャサリーンさんも殺害した。日本に逃走したが、81年に逮捕され83年9月、刑が確定した。
数年間、ゲイルさんは「泣いてばかりでバケツ何杯もの涙を流した」。その後、悲しみよりも、犯人を憎む気持ちが強まる。死刑執行に立ち会い、苦しむ姿を見ようと誓った。
しかし、事件から8年がたち、憎しみで終わる人生に疑問を持った。教会などを訪ね、怒りの感情が、平和や愛を求める気持ちに変わった。事件から12年、ゲイルさんは不思議な「心の声」を聞く。「許し、それを相手に伝えなさい」。その直後に手紙を書いた。
    ◇
ゲイルさんが犯人を許すまでにかかった時間は12年。一方、米東部ニュージャージー州で8年前、強盗の男に両親を殺害されたシャロン・ハザードジョンソンさん(52)は、07年暮れに州が死刑を廃止したため、犯人の死刑を墓前に伝える機会を失う。「私の心は壊れたままだ」
州議会で死刑の是非が議論されている間、死刑維持を主張し続けた。「犯人を許すことも、復讐(ふくしゅう)することもできず、正義に期待するしかなかった。両親は、正義に値する人だった」
死刑の維持や執行の停止が州によって異なる米国。死刑を望んでもかなえられないハザードジョンソンさんのような遺族は少なくないとみられる。それでも、ゲイルさんは言う。「死刑は遺族を増やすだけです」。ゲイルさんは今、死刑廃止を訴え全米を講演。ミッキー死刑囚を「友人」と呼び、定期的に慰問する。「キャサリーンの声が聞こえるんです。『ママは間違っていないわよ』って」




◇米国の死刑制度
米連邦最高裁が1972年、死刑を違憲と判断し各州が中止したが、76年の合憲判断で復活が相次いだ。現在、全米50州のうち死刑を規定しているのはカリフォルニアやテキサスなど36州。執行停止の州も多い。死刑復活から08年末までの執行は全米で計1136件。ほとんどが南部。執行は薬物注射で、家族や被害者遺族、ジャーナリストの立ち会いを認める州も少なくない。



同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/5 死刑囚、文集作り遺族に償い」


◇購読料生かし奨学金
米ミズーリ州のポトシ刑務所に収監中のデニス・スキリコーン死刑囚(49)には、「死刑囚」とは別にもう一つの顔がある。死刑囚で作る隔月文集「コンパッション(同情)」の編集長だ。
01年創刊。同死刑囚は03年、2代目編集長になった。各地の死刑囚から届く原稿に目を通し、刑務所内のコンピューターで編集、外部ボランティアの支援を受け全米約3300人の死刑囚に無料配布する。宗教団体などに有料で購読してもらい、集めた資金を犯罪遺族の奨学金に充てている。死刑囚の精神的ケアと遺族の支援を目的にした活動だ。
刑務所にスキリコーン死刑囚を訪ねた。面会室でプラスチックテーブルをはさんで向き合うと、白い半袖シャツの腕から薄い入れ墨がのぞいた。「私たちは間違いを犯した。奪った命を取り戻すことはできないが、せめて残った人を助けたい」
    ◇
スキリコーン死刑囚は94年8月、知人と一緒に乗っていた盗難車がエンスト。通りがかりの会社員が、携帯電話を貸そうと車を止めたところを、知人とともに銃で脅し近くの森に連れ込んだ。最後は知人が会社員を射殺、2人は死刑判決を受けた。当時、2人は薬物中毒。「薬物が抜けるとすぐ後悔し、遺族に申し訳ないと思った。彼には妻と娘がいた」
スキリコーン死刑囚は「遺族が私の死刑を待ち望む気持ちを理解している。死ぬ準備はできている」と言う。しかし、死んで罪を償うだけでなく、残りの人生を、少しでも価値あるものにできないかと考えたのが奨学金制度だ。これまでに肉親を殺害された17人に計3万8000ドル(約340万円)を支給した。
40年前に14歳年上の姉を殺されたテネシー州ノックスビルのタミ・マランビルさん(46)は07年、コンパッションに奨学金を申請。1500ドルを受け取り今、地元の短大で心理学を学ぶ。犯人はマランビルさんの姉のほか4人を殺した連続殺人犯。しかし、判決が出た73年当時、米国は死刑を違憲としていたため犯人は497年の刑期で服役中だ。
事件後、家族は思い出の街を捨て隣の州に移り住んだ。「事件で家族は沈み込んだ。犯人に死んでほしいと思っていた」。しかし、事件から30年たって、死を求める気持ちが薄らいだ。今、たまにコンパッションに目を通す。「殺人犯であっても人を助けたいという気持ちは尊い。奨学金には感謝している」
    ◇
スキリコーン死刑囚は昨年8月に刑執行予定だった。直前に延期になったが、コンパッション9月号の編集後記に「おそらくこれが最後」として他の死刑囚にあてこんな言葉を書いた。<我々にとって時間は友人ではない。時間を取り戻すためにできることはすべてやるべきだ>
罪を悔いながら執行を待つ死刑囚と、身内を奪われた痛みを持ち続ける遺族。一つの文集が双方をつないでいる。



同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/6 連合赤軍死刑囚支えた母」


◇「月に一度の面会」36年
房総半島の自宅から約2時間半。月に一度、東京・小菅の東京拘置所に足を運び、息子と向かい合った。
連合赤軍事件の坂口弘死刑囚(62)の母菊枝さんが、昨年9月17日に他界した。93歳。72年の夏、長野刑務所に拘置中の息子を訪ね、世話をすると伝えた。以来、36年間にわたって約束を果たす。
    ◇
4人兄弟の末っ子は、65年に東京水産大(現東京海洋大)に入学すると、学生運動に突き進んだ。2年後に中退。銃砲店に押し入り散弾銃などを奪って逃走し、最後にあさま山荘事件を引き起こした。東京地裁が死刑を言い渡した翌日の82年6月19日。菊枝さんは東京拘置所を訪れた。息子が、普段の「おふくろ」ではなく「お母さん」と呼びかけると、「そんな言葉使うな」とはね付けた。
控訴審が始まると、菊枝さんは長野や東京まで被害者や遺族に謝罪して回った。だが、93年3月に死刑が確定。その月、後藤田正晴法相(当時)が、3年4カ月ぶりに死刑執行を再開する。翌日、菊枝さんは不安をのぞかせ拘置所を訪れた。
坂口死刑囚が師事する歌人の佐佐木幸綱さん(70)に短歌を届け、歌作を支えたのも菊枝さんだった。「自分の責任を感じておられたんじゃないか」。息子に献身する母の姿を、佐佐木さんは振り返る。仕事、家庭。兄3人は、それぞれの生活を抱えている。「ほかの子(兄)はできないので、私がやってやらなくちゃ」とも言っていたという。
坂口死刑囚は支援者を通じ、毎日新聞に母の死去について「所感」を寄せた。
<無私の恩愛に、私は在り来りの言葉では言い尽くせぬ深い感謝の気持ちを抱いています。母の存在抜きにして今の自分があることは考えられません>
    ◇
奥深く拒まれ いまも実家にて吾の名禁句と 母は嘆けり
坂口死刑囚が詠んだ歌である。
「犠牲者の方に何とおわびして良いか分からず、私も妻も死ぬ気でおりました」。千葉県の実家で母親と暮らしていた長兄(76)は、86年1月に東京高裁で、そう証言した。当時小学生だった2人の子供を守るため、自殺を思いとどまる。「子供が将来も犯罪者の家族だと言われては。親として、防波堤にと思って必死でした」
父親は54歳で他界。坂口死刑囚が子供のころは、長兄が面倒を見ていたという。ただ、記者に先月届いた手紙には、母親との「温度差」ものぞかせた。
<罪を犯した子供の為に生涯を尽くした母はそれなりに本望だったと思いますが(略)私は、40年来取材の度に世間の人に好奇の目で見られ話題にされて過ごして参りました>
母と子、兄と弟。家族の思いは錯綜(さくそう)する。
明日21日は、菊枝さんがあさま山荘前で息子に銃を捨てるよう呼びかけて37年に当たる。




◇連合赤軍事件
連合赤軍の幹部らが71~72年、「総括」と称して群馬県内の山岳アジトで仲間12人を死亡させるなど、武装闘争の名の下、計17人の命を奪った。中央委員だった坂口弘死刑囚は、長野県軽井沢町のあさま山荘に72年2月19日から10日間立てこもり、警察官2人、市民1人を射殺した事件の主犯とされた。一連の事件で、元最高幹部の永田洋子死刑囚(64)の死刑も確定している。



同「正義のかたち:死刑・日米家族の選択/7止 塀の中生活21年の元少年」


◇心に刺さった、母の言葉
岡山刑務所で迎える13度目の冬。所内の工場で、旋盤でトラクターや自動車の部品を加工する日々。指先のあかぎれから血がにじむ。
名古屋市内の公園で88年2月、少年ら6人が若い男女を襲い殺害したアベック殺人事件で、リーダー格とされ無期懲役が確定した当時19歳の元少年(40)。「塀の中」での生活は21年になった。
元少年の母(62)は、接見禁止が解け、初めて名古屋少年鑑別所で対面した時の様子を「未成年だから、すぐ帰れるという態度で、アッケラカンとしていた」と振り返る。
そして、89年6月の名古屋地裁判決は死刑。「反省しているとは思えぬ態度が散見された」と、裁判長は厳しく批判した。
「もうダメだと思う。交通事故にでも遭ったと思って、おれのことはあきらめてくれ」。判決後、面会に来た母に、元少年は、投げやりな言葉をぶつけた。
「ばかなこと言うんじゃない。もしお前が死刑になるというなら、悪いけど、こっちが先に死なせてもらう」。肉体的にも精神的にもボロボロ。それでも苦しさに耐えるのは、お前が生きているから--。母の言葉が、突き刺さった。
<この時に私は初めて、本当の意味で被害者の方やご遺族の方のお気持ちというものを(略)自分なりにいろいろと考えることが出来たのです>
元少年が友人にあてた手紙である。
名古屋高裁は96年12月、更生の可能性を認め、無期懲役に減刑した。生と死のはざまで、奪った命の重さと向き合った。
    ◇
収容されている部屋の前に咲くアイリスのこと、部屋の中に漂ってくるキンモクセイのにおい--。昨年、岡山刑務所の息子から届いた手紙に、今までになく、草花のことがつづられていた。「オジサンになったんかな」。愛知県内に暮らす母は、笑みをこぼした。
仮釈放のことは、考えないようにしている。受刑者の再犯を危惧(きぐ)する声が強まり、容易には実現しないと思う。事件にかかわった6人のうち4人は出所したが、遺族に謝罪せず示談金もほとんど支払っていないと聞いた。
サラリーマンの夫の退職金で、遺族への示談金を支払い終えた。その夫も、6年前に他界した。パート勤めの毎日。「手紙のやり取りができればうれしいという感じです」。06年夏以来、息子には会っていない。
    ◇
<出口の見えないトンネルの中に入っているようなものです>
無期懲役の受刑者としての心情を、元少年は友人への手紙で記した。関係者によると、97年1月の判決確定から30年以上たたなければ仮釈放は難しそうだ。
<どんなに小さな光だとしてもこれからも私はその小さな光をしっかりと見つめて、焦らずに一歩一歩一生懸命に頑張っていきたいと思います>
確定から30年後の27年。母は81歳になる。長いトンネルを抜けるまで、元気でいてくれることを祈っている。




◇アベック殺人事件
名古屋市緑区の公園で88年2月23日未明、少年ら6人が理容師の男性(当時19歳)と理容師見習の女性(同20歳)を襲い、現金約2万円を奪った。2人を車で連れ回し、相次ぎ殺害。無期懲役から「懲役5年以上10年以下」の刑が全員、確定した。


私自身が考え続ける材料として、引いております。
毎度毎度のコピペにて、申し訳・・・。

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Author: 番記者O on 2009年2月22日
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